notes

健康と病気、からだと心、治療と治癒について、読んだ本と考えたことの記録です。

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トアヴァルト・デトレフゼン、リューディガー・ダールケ『病気が教えてくれる、病気の治し方』柏書房,2004年.

症状はすべて、物質化した影である。つまり、意識のなかで体験したくないものを症状で体験するのである。症状は、体を経由して人間をふたたび完全にする。これは相互補完性の原則だ。意識のなかで特定の性質を拒むと、その性質は体におりて症状として出てくる。そのため、けっきょくその性質を体験して実現することになる。このようにして症状は人を健康にするのである。(p. 50)

このような感覚は、特に慢性的な症状を経験したことのある方には心当たりのあることと思います。

姿を変え、形を変え、どこまでも追いかけてくる症状。私はあるときそれに、ものすごく大きな愛を感じました。意識が現実逃避を何年、何十年と続けていても、体の症状だけは、私が私でいることを、完全性を追求することを、一度もあきらめていなかったんだな、と。心は弱くとも、体は強く、賢い。

治療の観点から言うなら、目に見える症状に向き合うことで、必ず目に見えない病にも触れることができる、ということですね。

The storm ran out of rain, the clouds are moving.

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満月の、次の夜の月。

 

ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』みすず書房,2002年.

  あるいはまた、ある夕べ、わたしたちが労働で死ぬほど疲れて、スープの椀を手に、居住棟のむき出しの土の床にへたりこんでいたときに、突然、仲間がとびこんで、疲れていようが寒かろうが、とにかく点呼場に出てこい、と急きたてた。太陽が沈んでいくさまを見逃させまいという、ただそれだけのために。
 そしてわたしたちは、暗く燃えあがる雲におおわれた西の空をながめ、地平線いっぱいに、鉄色から血のように輝く赤まで、この世のものとも思えない色合いでたえずさまざまに幻想的な形を変えていく雲をながめた。その下には、それとは対照的に、収容所の殺伐とした灰色の棟の群れとぬかるんだ点呼場が広がり、水たまりは燃えるような天空を映していた。
 わたしたちは数分間、言葉もなく心を奪われていたが、だれかが言った。
 「世界はどうしてこんなに美しいんだ!」(p.65,66)

 

私がこれまで生きてきたなかで一番きれいな月を見たのは、これまで生きてきたなかで一番悲しいできごとがあった後のことでした。

その月を見ながら私は、生きるとはこういうことだよ、と教えられているような気がしたのでした。

月のきれいさに涙したり、世界の美しさに胸が苦しくなったり、そういう瞬間のために、人は生きているんだよ、と。こうして世界はここにあり続けるから、それだけであなたが生き続ける理由になるんだよ、と。


明日や将来のことを考えられなくなったときというのは、言い方を変えると、今しか見えていない状態で、それはある意味、生きることの本質であり理想だと思います。

深い悲しみを知るということは、感じられる世界がそれだけ深まるということで、そこには悲しみがあるけれど、でも悲しみだけがあるわけではないのです。

正常な反応

ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』みすず書房,2002年.

 ゴットホルト・エフライム・レッシングは、かつてこう言った。
「特定のことに直面しても分別を失わない者は、そもそも失うべき分別をもっていないのだ」
 異常な状況では異常な反応を示すのが正常なのだ。精神医学者の立場からも、人間は正常であるほど、たとえば精神病院に入れられると言った異常な状況に置かれると異常な反応を示すことは、充分に予測できる。強制収容所の被収容者の反応も、異常な精神状態を示しているが、それ自体は正常な反応であって、このような状況との関連に置いて見るかぎり、典型的な感情の反応なのだ。(p.31,32) 

 私たちの身体が示すさまざまな症状は、この「正常な反応」に当たるものだと私は感じています。

例えば、私には生後間もない頃から色々なものに対するアレルギーがありましたが、一番多いのが食べ物でした。卵、牛乳、小麦、米、大豆、肉、そして特定の野菜や果物。例えばお肉の場合は、一般的に食べられている牛、豚、鶏などにはアレルギー反応を示しますが、食用としては比較的稀なカエルなどは大丈夫だったそうです。最近でも、お刺身を食べて口が痒くなることがありますが、養殖のお魚である場合が多いです。

私の家族や親戚にはこのようなアレルギーを持った人は一人もいないので、自分ばかりが「異常な反応」を起こす、欠陥のある体に生まれたのだと考えるのはとても簡単なことでした。

34年生きた今なら、それは違うと確信を持って言えます。アレルギーを含むさまざまな症状は、その時の自分の体にできる、その状況に対する最も正常な反応であって、それは体そのものが正常であるからこそできる反応だと思うのです。

私がアレルギーを持つ食べ物は全て、人が昔から食べ続けてきたもので、食べ物として生産される過程では自然とはかけ離れた環境で育てられたものも多くあります。農薬や肥料、遺伝子組み換えや人工交配、抗生物質といった、その不自然さに体が反応したとしても不思議ではないと思っています。

反応の対象は、あるいは色々な形のストレスかもしれません。身体の許容範囲を超えるストレスを、物理的にでも精神的にでも受ければ、身体が正常であればこそ、正常な反応として、症状という形でそれを示すことができる。

症状は火災報知機の「音」だと私はよく言いますが、音が鳴るのは報知機が正常に機能している証拠です。火災という異常な状況に対する、「正常な反応」です。現代の医療では、この火災報知機が鳴っているときに、音がうるさいからと言って、報知器そのものを壊したり、電源を抜いてしまうような、本質的でない治療がとても多いと感じます。

もちろん、病には色々な側面があって、これはそのひとつに過ぎません。でも、病に苦しむ人に対して、「あなたの身体には異常があるのでそれは治さなければいけません」と言うのではなく、「あなたの身体はとても賢く、正常に機能しているので、その身体が今起こしている反応が何を示しているのか、その原因を探って解決しましょう」と言える治療に携わりたいと思っています。

Hello, my only one.

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今朝の東の空。

Hello my only one, just like the morning sun
You'll keep on rising 'til the sky knows your name
Hello my only one, remember who you are
No you're not perfect but you're not your mistakes
...
Hello my only one, remember who you are
You got the world 'cause you got love in your hands
And you're still my chosen one
So can you understand? One day you'll understand
(Kanye West, Only one.)

最近教わったのですが、赤ちゃんが生まれたことをご報告するお宮参りにはちゃんと意味があって、本当にあれで神様たちはその子の存在を認識するそうです。

私たちのそばにはたくさんの存在がいて、それを神様と呼んだりエネルギーと呼んだりしますが、それは人と同じように、挨拶をすれば返してくれて、協力をお願いすれば応えてくれるということを、このエネルギーの施術を学んで知りました。

神様の存在を証明する、というのが私の昔からの夢でしたが、それは叶ったので、次はそれをたくさんの人と共有するのが私の目標です。

Fruit too ripe to eat.

先日、浄化をする前と、した後の、フルーツの食べ比べをしました。

私は基本的にフルーツが好きではありません。子どもの頃、フルーツを食べると必ず口の中が痒くなったので、それが嫌で避けてきました。食べなくて良いなら食べたくない。

ですがこれは浄化の訓練です。

まず、マンゴー。浄化をする前に一口食べると、もう痒い。すぐ痒い。咳が出始めて、喉が腫れて締まっていくような、喘息の前兆のような感じです。もう食べたくない...

そのマンゴーを、しばらく浄化します。その後一口食べると、さっきの症状が全く出ませんでした。味や食感に刺激がなくなって、丸くなる感じです。

次に、桃。こちらも、浄化をする前は少し痒みが出ました。同様に、浄化後はそれがなくなりました。マンゴーより症状が軽かったのは、減農薬で栽培された桃だったからかもしれません。

何にしても、浄化をすることで不自然なものの影響を取り除けば、フルーツ本来の味はもっと柔らかいものだということが分かりました。

 

と同時に、この手間をかけてまで食べたいほどそもそもフルーツが好きではないということも改めて実感しました。

このフルーツに対する苦手意識には別の要因があるのではと指摘されたのですが、私もそう感じています。フルーツって、なんか柔らかくて、じゅくじゅくしていて、すごく「生きもの」だから気持ち悪い、っていう感覚を自分が持っているのを感じます。

これについてはもっと自分を観察してみます。

Genie, I wish you free.

治癒って、自由になること。というお話の続き。

私もそうですが、人って自ら色々な制限を課して生きています。なんで、っていうのは、一言で言えば、自分がそれを望むからだと思います。

子どもの頃って、白線の上しか歩いたらだめ、みたいなことをよくやりましたが、あれと一緒です。楽しいからやってる。だから、やめるのもすごく簡単。もうやめた、って決めるだけです。

この「もうやめた」まで導くのが治療で、本人がそう決めれば、あとはもともと備わっている治癒力が働いて、治癒が起こる。

でもこの制限って、手放すのにすごく苦労します。私にも、まだまだ自分が大事に大事にしている制限がたくさんあると感じます。

それは、これまでの私には必要で、私をずっと支え、ここまで生かしてくれた大切な「幻想」なので、当然です。幻想だって私の一部ですからね。

でも私自身、治療によって、もうここから手を離しても生きていける、手を離したらもっと遠くまで行ける、もっと楽しいことに出会える、そう思えるようになってきたという実感があります。

人って、自分が本当にやりたくないことはやらない。よく言われる、全部自分で選んでる、というやつです。

自由になるというのは、治ることを選ぶ、ということです。そっちの方が楽しそうだから。

『人はなぜ治るのか』

アンドルー・ワイル『人はなぜ治るのか』日本教文社,1993年.

病について、治癒について、考えるだけでなくそのプロセスに直接関わりたいと思い始めたのは、10年ほど前、この本を初めて読んだ頃でした。

この本では東西のあらゆる治療法が紹介されていて、13章ではシャーマニズム、マインド・キュアー、信仰療法に分類される治療法を扱うのですが、そのマインド・キュアーの例として「クリスチャン・サイエンス」が挙げられています。

クリスチャン・サイエンス」の修練の目標は、病気の本体が幻想であることに気づくところにあるのだ。そのことに心の底から気づき、現実としてそれを体験した人は、肉体的な苦痛から解放される。 (p. 221)

クリスチャン・サイエンスの治療自体は体験したことがないので分かりませんが、この考え方は応用できるように思います。

ここで「幻想である」ことの意味、捉え方には色々あると思いますが、私が大事だと思うのは、

  1. 自分が作り出したものである
  2. 変えられるものである

ということ。

つまり、自分で変えられる!

治療に求められるのは、この幻想と向き合って、幻想から自由になるためのサポートをすること。治るというのは、自由になることだと思っています。